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【書評】春風夏雨

この本との出会い

大学時代の友達が「春宵十話」をオススメしてくれて、その時に数学者、岡潔を知った。

春宵十話 (角川ソフィア文庫)

春宵十話 (角川ソフィア文庫)

「数学は論理的な学問ではなく、情緒的なものだ」 確かこんなことが春宵十話には書かれていて、「数学こそが論理的な学問ではないか」と思っていた自分は新鮮な気持ちになり、岡潔の名前を覚えていた。

ちょうど Amazon.co.jp: KADOKAWA 年末年始フェア岡潔の本を見つけたので読んでみた。

本書の狙い

数学の話はむしろ少なく、科学、芸術、教育、文化論、情緒、生命など多岐にわたるテーマについて岡潔がどう考えているのかが書かれている。

例えば教育については下記のように書いてある。

これも子供を対象にしていうなら、先人の残した学問、芸術、身を以て行なった善行、人の世の美しい物語、こうしたいろいろの良いものを知らせるのが大切であろう。ものの良さがわかるということは明治以来だんだんむずかしくなってきている。現代は他人の短所はわかっても長所はなかなかわからない、そんな風潮が支配している時代なのだから、学問の良さ、芸術の良さもなかなかわからない。 〜(中略)〜

教育というのは、ものの良さが本当にわかるようにするのが第一義ではなかろうか。

個人的には岡潔がどのように数学をしてきたかを表現している一文が面白かった。

私は大学を出てから四十年近く数学の研究をつづけているのだが、どのようにして数学をして来たかをひとくちにいうと、自我を抑止することによって大自然の無差別智の働くにまかせたのだといえる。

数学をする時

こういうふうに、私は大脳前頭葉を働かせなければ判断できないように訓練されているので、数学に没入しているときは、それ以外の外界の景色などが目にはいろうとはいるまいと、全然無関心になっている。完全な精神統一が行なわれ、外界と私との交渉は、判断の前で断ち切られているといえる。そしてこのときには、のどかな春のような喜びが伴い、いろいろなことがわかってくる。これが情操型の発見なのである。

フローについて。

これでわかるように、私は数学の研究に没入しているときは、自分を意識するということがない。つまりいつも童心の時期にいるわけである。そこへ行こうと思えば、自我を抑止すればそれでよい。それで私は、私の研究室員に「数学は数え年三つまでのところで研究し、四つのところで表現するのだ。五つ以後は決して入れてはならない」と口ぐせのように教えている。

数え年三つまでは自己が見られず、数え年四つで理性の原型と時空がでてくる。ただし、自他の区別はまだつかないのだそう。 五つで感情、意欲の主体としての自分を意識するようになり自他の区別がつく。

自分を意識しないという具体的な例を話してみよう。私はある録音の校正に没入していた。ちょうどそれが終ったとき妻が障子を開けて「バナナ食べますか」とたずねた。私はしばらく返事ができなかった。言葉の意味はよくわかったので「お前はある果物を口に入れるか」と聞いているなと思ったのだが、それと自分とのつながりがわからなかった。

フロー (心理学) - Wikipediaにある

 3.自己に対する意識の感覚の低下、活動と意識の融合

のことを岡潔の言葉で表現されている。

「没入するにはどうすればよいか?」 「自我を抑制すればそれでよい」 という答えが岡潔が身を持って実践してきたことを表していて秀逸だと思った。

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